存在理由は悲境と共に
しんと静まり返った、場所。
幾本もの太い木が林立し、その幹に刻まれているのは独特の木目。
薄暗さが漂い、朝もやもまだ明けぬ早朝。清らかな空気は清々しい。
此処は「聖十字公園」という名前の公園である。近くには教会があり、そこが主に管理している場所。
すぐ傍には民家もあり、昼間は人がたくさんいて賑わっているが、今は早朝。人はほとんどいない。
喧噪の多い時間とはまた違う、静かなる顔を見せるそこで、一人の子供がフラフラと歩いていた。
瞳は大きく、まぁぱっちりしていると言えなくもない。だが虚ろで、生気というものをまるで無い。
黒襟のついた赤いシャツを着、下には短いズボン。そこからすっと伸びる足には、黒いオーバーニを穿いている。
普通なら『絶対領域』なる太股のラインが艶美を誘うところだが、この子は違った。
わずかに見える太ももには、獣に噛まれたような傷や、ぶつけたようなあざが多くあった。
隠れてはいるが、オーバーニの下も同じような傷があるだろう。
そのせいで、フラフラとした歩き方を余儀なくされている。この子の名前は十闇(とやみ)。
自力で歩いてはいるが、その動きは見ているだけで実に痛々しい。
千鳥足ながらに『酔っぱらい』というより、息も絶え絶えという表現が相応しかろう。何かから逃げて此処にきたという感じすらする。
「………」
誰もいない公園の太い木の幹によりかかり、その子は座った。溜息を一つつき、そうっと足に手をかける。
下げられた片方のオーバーニの下から見えたのは、太股と同じ傷だらけの足だった。
傷の程度は様々だ。まだ新しい血が滲んでいる箇所もあれば、かざぶたが出来てもう治りかけている傷、
治りかけてまた傷をつけられたような中途半端な様相を示すものもあり、いくつかは特にひどく、膿んでいる。
まともな人なら、それを見て顔をしかめるだろう。尋常ではないほどひどい傷。
暴行か虐待の傷にも見える。だが叩かれたり蹴られたあとではなく、ぶつけたようなあざと、獣による咬傷ばかり。
どういうわけか、咬み傷なのだ。
「どうして」
誰に聞かせるでもなく、呟く。そして次に傷に指をあて、ぐっと押して膿を出した。
「…うぅ」
出される声は、くぐもった喘ぎ声。
「…いっ……あ…あっ……ッ……う」
痛いのか――それはそうだろう。
傷口をこんな風に絞るなんて、痛いし痕が残るしで、普通はやらないことなのに。
「…いた…っ……う…あっ…あー…!」
だが、十闇が泣いている原因は別にあるようだった
「…えっ……ぁ…どう…して…」
痛みのせいであげる声の合間に、どこか哀しげな叫びも出す。
「何で、僕――私、は」
絞り出された膿が、地面に落ちた。しゃくりあげながらそれを見、傷口にそっとティッシュをあてる。
血と浸出液で濡れた足を拭きながら、十闇は呟き続けた。
「どうして…お父さん。どうして私を―― 僕を、傷つけるの」
流れ出した血が袖を汚す。だがそれ以上に涙がぽとぽと服に落ちる。
「私が一体何をした。何で僕を憎むんですか…」
吐き出される言葉は、語尾も人称もバラバラだ。
いや、十闇自身も自分で何を言っているのかよく分からない様子である。
言いたいことが頭の中でゴチャゴチャになっているのだろうか…分からないまま公園に来て、分からないまま言葉を吐く。
――しかも、何故、泣く。
だがその理由を今、問う人はいない。此処は無人の公園。此処で十闇が何をしようと、誰も知った話ではないはず。
はず…なのだが。
「ちょっとアンタ、どうしたの? なんか痛々しい声をあげちゃって」
突然木の影から誰かが飛び出してきた。十闇の前にひょいっと出ると、その場で立ったまま尋ねた。
「…えっ」
あまりにふいな事で十闇は驚いた。ビクッと体を震わせると、相手は大丈夫だというように軽く手をあげた。
「あぁ、驚かしちゃってごめん。でも大丈夫。別に何もしないわよ」
相手は少女だった。年は…十闇と同じくらいだろうか。
紫のシャツに白い半ズボン。ピンク色のとんぼ玉の飾りがついたゴムを使い、髪の毛を、頭の高い位置で小さなツインにしている。
ちょっと釣り目なその表情は、今流行りのツンデレの「ツン」と言えなくもない。
が、そんな外見とはよそに、雰囲気はわりとフレンドリーだ。
しかし、あまりに突然といえば突然の登場。十闇は警戒心をあらわにして訊ねた。
「誰。どこから来たんですか?」
「あたし? ああ、あたしはすぐそこ。この公園の向こうっ側に家があるでしょ。そこに住んでるの。アンタは?」
「僕…は、ずっと向こう。少し遠くから…」
「そうなんだ」
「…貴方、朝によく此処に来るの?」
「ううん」
十闇の問いに、少女は首をふった。
「昼間ならよく通るけど、こんな時間にうろつくことはないわ。朝早く起きて、授業中に居眠りしているんじゃ話にならないしね。
でも今日は異常に目が覚めちゃってさ。折角だから散歩でもしようと外に出て、
だぁれもいないはずの空間を満喫しようと思ったら泣き声が聞こえるんだもの。びっくりしたわー…アンタは何でここに来たの?」
「…教会に」
十闇はボソボソと答えた。
「教会に行きたかったんです」
「そうなの。それで此処の公園に来たのね。でもこんな時間じゃやってないわよ」
「分かっています。でも近くに行きたくて。落ち着きますから」
「成程。アンタ、クリスチャンなの?」
「いいえ。でも時々行きます。あそこの神父さん、とても優しい人ですから」
「そっか。あー…ところで話は変わるけど。アンタ、大丈夫?」
「え…」
少女は膝に手をつくと、あずき色の綺麗な瞳で十闇の目を覗き込んだ。
十闇はそれにまた少しビクついたものの、場を取り持とうとまた質問を続けた。
「あの」
「うん」
「あ、貴方…誰。名前は?」
「っと、ごめん。言うの忘れた。あたしは千緒。樫枝千緒(かしえちお)っていうのよ。アンタは?」
「十闇」
「そう。苗字は?」
「……」
「言いたくないなら、言わなくて良いわ」
名字を聞かれて口ごもる十闇に、しかし少女はアッサリと言った。特に興味もないらしい。
傷だらけの足を片方剥きだしたまま、その場で変な姿勢でしゃがむ十闇をよそに、彼女―― 千緒は腰に手をあて、ぐるっと周囲を見渡した。
「しっかし、余計なお世話かもしんないけど、一人称くらい統一したら? なぁんか、僕って言ったり私って言ったり…」
「え?」
「ていうかアンタ、失礼だけど男の子? それとも女の子? ま、どっちでもいいわ。
こんな朝早くから公園に来て、一人で泣いているなんて、何があったの?」
「…あの、言葉」
「ん?」
「言葉、聞こえていましたか?」
千緒の質問に答える前に、十闇はおずおずと尋ねた。
誰もいないと思って、心に浮かぶがままに紡いだ言葉、それを――
「ああ、バッチリ聞こえてたわよ。僕があーだとか、私がこーだとか」
「え…」
千緒はアッサリと肯定したが、十闇はそれを聞いて顔を曇らせた。独り言を聞かれていた恥ずかしさと気まずさで、次ぐ言葉がない。
「ところで、余計なお世話かもしれないけど、アンタの足の傷、けっこう酷いじゃない。
獣に噛まれた傷に見えるけど、アンタ、お父さんが〜とか言ってたわね。
どういう関係か知らないけど痛そうねぇ。化膿してるところ、イジるのはとにかく、清潔にしないと逆効果よ」
ボソボソと言う十闇に対し、千緒はさっさっと言葉を続ける。
「あたしの家、此処から近いし、良かったら手当してあげようか」
「いえ、いいです。放っておいても治りますから」
「そりゃ治るには治るだろうけど、それ…」
「いいんです、本当に。こんな傷くらい、自力で治してみせますから。
私はあんな獣なんかに負けません。今は――あれですが、でもいつか絶対見返します」
突然、十闇はボソボソ言うのをやめて普通に喋りだした。しかも、最後の方は妙に力がこもった。
「報復を」
十闇は急に顔をあげた。
それに千緒は一瞬けげんな顔をしたものの、そのまま言葉を返した。
「報復?」
「ええ!」
十闇は勢いよく返事をした。
あまりの勢いに、相手がそれとはっきり分かる驚いた顔をするのをよそに、十闇はいきなり、怒涛のごとく喋りだした。
「私を傷つけ陥れ! 噛んで投げて引っ掻いて…実の子なのに何故、こんな仕打ちを私にするのか。
どうして僕はこんな哀しい思いをしなければならない。何故に彼は私を襲う。
私の何が悪くて、こんな目に合わなければならないのでしょう。私が死んだ母に似ているから悪いんでしょうか?」
一度喋りだしたら、もう止まらない。今までボソボソとしか喋らなかったのが嘘のように、十闇は叫んだ。
本人にしか分からぬことを――これはある種、心の叫びとも言えるかもしれない。それをひたすら喋り続ける。
「でも、子が親に似て何が悪いのです。珍しくもないだろうに…なのにどうして私が外出するのを禁じるのですか」
「……十闇」
「母にもこういう事、してたんでしょうか。だとしたら僕にはいい迷惑だ。
一体何が気に入らなくて、私の足を狙って噛みつくのでしょう。どうして私を縛るのでしょう。
そして、それでいながら、ろくに待遇もしてくれない…このままじゃ私、本当に死んでしまうかも知れない」
「十闇」
「傷つけ弱らせ閉じ込めて、最後には私を餓死させる気か、あの外道が!!
復讐してやる…首を真綿で絞めるように、じわじわと苦しみ嘆かせてやる!」
「十闇、落ち着いて」
「…あ」
千緒がそっと、十闇の頬に触れた。
それに十闇は我に返ったようだった。軽く頭をふり、また小さな声で言った。
「――と言っても、貴方には意味が分からないですよね。ごめんなさい、つい…」
「いいのよ」
千緒はあっさりと言った。そして十闇の隣に座った。
「確かに、訳は分かんないわ。でも、言いたいことがあるならぶちまけるべきよ。
あたしで良ければ聞いてあげる。此処で会ったのも何かの縁よ。その方がスッキリするでしょ?」
「…………」
「アンタ、お母さんは? さっき、死んだって…」
「ええ、死にました。とっくの昔に。いるのはろくでなしの親父だけです」
「でも、そのお父さんが憎いのね」
「ええ、憎いです。だって…私の足のこの傷、すべて父につけられました」
十闇は言い、己の足をすっと撫でた。
「獣の咬傷みたいだって、貴方はさっき言いましたね? ええ、その通り…全く正解。
でも――信じられないでしょうが、私を傷つけるそのケダモノこそが、我が肉親である父なのです。
おかしいですよね、私の言っていること」
「そうねぇ」
千緒は否定しなかった。ただ、のんびりと言葉を紡ぐ。
「獣が親――って、そんな日本昔話でもあるまいし。あぁ、ひょっとして比喩?
ケダモノみたいな親父だってことかしら。一体、どういう人なの?」
「ヒトじゃありません。ケモノです。顔と下半身は黒く、胸と耳は青い毛をしています。
前足にはコウモリに似た黒い翼があり、先には三つの鉤爪が。
瞳は緑で鋭く、しかし牙がそれを超えるほど異常に鋭くて…それでいつも私を傷つける。本当に酷い獣」
「あらら、まるでバケモノね」
十闇はしきりと説明していたが、千緒にはその言葉がよく理解出来なかった。
無理もない、青い毛だとかコウモリの翼だとか、ありえない話がこれだけ混じっていては。
いや、そもそも根本的に『獣が親です』と言われ『はいそうですか』とはとても言えない。
だが、千緒はこう考えていた。
おそらく十闇の父親はイヌか何かを飼っていて、それを十闇にけしかけるのだろう。
「青い毛」というのは、おそらく犬の毛並みの一種。馬でもそうだが、犬でも毛の色によってはそう呼ぶことがある。
あるいは服を着ているのかもしれない。むしろそれなら『コウモリのような翼がある』という表現も納得がいく。
十闇はおそらく、獣を自分にけしかける父親と、実際自分を襲ってくるそれとを恐怖のあまり混同しているのだ。だからこんなシッチャカメッチャカな話をする。
そう考える彼女をよそに、十闇はやや自虐的に言葉を吐いた。
「信じなくても良いです。…別に、求めていません。そんな理解は」
「そうねぇ、ちょっと理解は難しいわ。でも」
千緒はしゃがんだ。
外気にさらされている十闇の足の傷を、じっと見る。
「アンタの足が傷だらけなのは事実だものね。獣の咬み傷ってのがどうにも腑に落ちないけれど、
それが実の親にやられたものなら、これはあんまりね。消毒もしなかったのね…こんなに酷く膿んでいる。病院には――」
と言いかけて、しかし途中で言葉をやめた。
「行けるんなら、とっくに行ってるわよね。ごめん」
「いえ」
十闇は短く返事をした。
「私こそ…ごめんなさい。楽しい話でもないのに」
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